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【御依頼製作】守護代内藤家の居城、丹波三大城郭の1つ、八木城。


丹波国・八木城

丹波国八木城は現在の京都府南丹市八木にある山城。
丹波国三大城郭の1つに数えられる。(八上城、黒井城)
始まりは足利尊氏の時代に戦功のあった内藤氏が船井郡に入って築城したと言われる。
その後は細川家が管領となり丹波国守護となったことで、守護代として内藤家が長くこの地を治め、八木城も随時拡張されていった。
畿内で三好家が台頭し始めた16世紀になると丹波国内で戦があり、八上城の波多野家に敗れて八木城は落城、当時の当主内藤国定も討ち死にしたと伝わる。その際に、三好家で勢いのあった松永久秀の弟である松永長頼が八木城を奪還した。その戦功により将軍家から内藤姓を賜り、内藤宗勝と名乗り、城主となった。

丹波国内では八上城の波多野氏と黒井城の赤井氏が勢力争いをしていた。内藤宗勝(松永長頼)はそれを収めようと出陣するも、丹波の赤鬼・赤井直正に急襲されて討死してしまう。
そして、八木城を引き継いだのが、内藤宗勝と3度目の結婚をしたと伝わる前城主・内藤国定の娘との間に生まれた五郎丸、のちの内藤如安(ジョアン)。
内藤ジョアンはルイスフロイスから洗礼を受け、キリシタンとなり何度も宣教師を招いて布教活動を行った。
内藤家内での家督相続争いが起こり、ジョアンは内藤家を出て小西行長の元へ身を寄せるなど布教活動に専念。後にキリシタン追放令で高山重友(右近)らとマニラに向かい、最後まで宗教家としての人生を全うしたという。
八木城はその後、織田家の明智光秀に攻められ落城、内藤家も途絶えたという。

丹波三大城郭の名に恥じぬ堅固な山城を再現。

この度、「城育」として地元の子供たちに、地域の歴史を伝える非常に素晴らしい活動をされておられる地元団体様よりご依頼いただき、制作をさせていただきました。
地元の歴史を知ることは、自分の誇り(地域愛、自身のアイデンティティー)に繋がり、将来的に経験値として県外で活躍した後、または活躍しながらも、「地元のために役に立ちたい」という想いを持つ立派な日本人になると思っています。

丹波八木城は非常に大きな縄張りを持ちます。見た目の迫力や教育的(説明的)観点からも踏まえて、800分の1スケールでの製作とさせていただきました。
何度かの現地調査とデータ制作、模型製作を通じて、八木城の往時の姿、規模感を感じ取ることが出来ました。


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